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リヤカーで運ばれたのは私の時じゃなかった!今ごろ知った出生時の秘密と私の生きる目的

私の姉はブログを書いています。
不定期でめったに更新されないブログですが、それでもたまに更新されると、姉の生存確認ができてうれしくなります。
メールでもLINEでも電話でも、他に生存確認できる手段はたくさんあるけれど、ブログの更新は相手の生活や時間を邪魔することなく、こちらの都合で読むことができるので、便利なんですよね。

さて、そんな姉のブログを読んで、改めて私はまだまだ生きなければならないと、心に誓ったことがありました。

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自分が生まれた日のことを知っていますか?

「自分の名前の由来」というテーマで、小学校の頃、課題学習をやったことがあります。
その時初めて、自分の名前に込められた両親の気持ちを知り、耳の奥がこそばゆいような、喉に甘酸っぱい何かが広がるような、ほんわかうれしい気持ちになったことを、覚えています。

では、自分がこの世に生を受けた日のことを、親から聞いたことはあったでしょうか。

おそらく、私の妊娠や出産に絡んで、父と母はそんな話をしてくれたと思うのですが、実は今の今まですっかり忘れておりました。
いや、忘れていたというよりも、思い出すことすらしていませんでした。

先日、姉のブログに「私が生まれた日」のことが綴られていました。

~前略~
(姉が里帰り出産のため実家へ帰省中の時のこと)

父と母が、妹が生まれたときのことを話していた。
私も覚えている。
(妹とは8歳年が離れているので)

夜中に破水したのだった。
当時我が家には車も電話も無かった。
(これにはびっくり。そんな時代だったのね)

それで父が吹雪の中、駅までタクシーを呼びに行ったのだった。
(妹が生まれたのは12月だから)

そして父と母は病院へ。
夜が明けて、吹雪の中私が歩いて学校へ行く途中、父が向こうから自転車に乗ってやって来た。
(自転車で行ってたのか!)

私に「さっき生まれたよ!女の子だ」と言ってすれちがった。
私は「やったー!」と思って嬉しくて、学校に着くとすぐに仲の良かった男の子に言った。
「家に赤ちゃん生まれたかどうか?」
(これは覚えてる。その子の名前はJ君だ)

その子が「生まれない」と答えたので「残念でした!生まれたんだよ!」って得意になって言ったのを覚えている。

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リヤカーで運んだのは私の時じゃなかったのか!

姉のブログを読んで、私もその昔母から、母が出産するときのことを聞いたことを思い出しました。ただし、私が聞いていた話は、姉のとはちょっと違います。

母が夜中にトイレに起きたら破水をした。
当時は電話も車もなかったし、しかも真夜中。
父は母をリヤカーに乗せて、病院まで運んだ。
そして無事に私が生まれた。

こんな風に聞かされていました。
ただし、私の記憶も曖昧なもので、それが姉が生まれた時の話だったのか、私が生まれた時の話だったのか、ごちゃまぜになっていたのかもしれません。

だけど、私は自分が生まれる時、母がリヤカーに乗って病院へ行ったということを、実は誇らしげに思っていたんです。
だって、リヤカーですよ!リヤカー!

今のリヤカーはアルミ製ですが、昔は木でできていましたからね。

こんなに時代を象徴する乗り物が他にあるでしょうか?
今、出産のため夫が妻をリヤカーに乗せて病院へ行ったら、町中の噂になるでしょうね。
もしかしたら地元のローカル新聞の記事になるかもしれません。

なんだ、残念です。
リカヤーで病院へ行ったのは私の時じゃなかったのかぁ・・・。

すぐさま姉へLINEしました。

私の生きる目的

出産というのは、個人個人のドラマチックな物語がそこにあります。

私も3人の我が子たちが生まれた日のことは、今でもよく覚えていますが、それは父や母にとっても同じことだったんですよね。

私がこの世に生を受けた日、父と母にはそれぞれ心に刻まれた物語があったんです。

命は巡る。
果てしなく続く命。

私をこの世に生んでくれた両親のことを、今度は私が責任をもってしっかりと見送りたい。
それが私の務めでもあり、責任でもあるのだということに、今更ながら思ったのです。

4年前に父を見送ったので、半分は役目を果たせたけれど、残りの半分もしっかり果たしたい。
こんな気持ちは、50歳を過ぎた今でなければ気づくことができないことでした。

人生のターニングポイントを、何かの折に家族へ話す、または家族へ聞くということは、とてもとても意味のあることなのだと思いました。

「生」に感謝をしながら生きる。
これが私の生きる目的です。

 

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