スポンサーリンク

高齢の親の言動にイライラしたら子育てをしていた時を思い出せばいい

親が高齢となり、ましてや認知症を伴いもの忘れがひどくなってくると、そんな親の言動にイライラします。
頭ではわかっていても、ついついむきになって返答してしまう。
そして自己嫌悪に陥り反省する。
なのに、また同じことを繰り返し、イライラするのです。

そんな私が、最近気持ちを180度切り替えられたのは、3人の子どもたちの子育て真っ最中だった過去のことを思い出したからです。

スポンサーリンク

晩ごはんの準備をしている母の姿をみて

仕事が終わり家に帰ってから、母のところへ顔を出すと、母が自分の食べる晩ごはんを作っている最中でした。
いつもなら、私が帰宅する時間にはとっくに晩ごはんは食べ終えているので、めずらしいなと思いました。

鍋にはつゆが煮立てられていて、お昼にヘルパーさんが用意してくれたうどんを冷蔵庫から出していました。
そして、母がまな板の上でネギを刻んでいる姿をみて、びっくりしたのです。

認知症になると、物事を順序立てて考えることができなくなるので、料理など段取りをたてて同時進行するような作業はできなくなります。
なのに母は今、うどんのつゆを火にかけ、ネギを刻んでいる。

そこで私は、冷凍庫から野菜のかき揚げ天ぷら(生協のもの)を出し、「これを入れればいいよ」と母に言いました。
「そうか、こうやって使えばいいんだね」と母が言うので、私はお皿の上にかき揚げを乗せ、レンジで温めました。

温める時間はわずか1分。
そのわずかな時間に、母は冷凍庫に入っている、これまた生協のパラパラミンチを取り出し、うどんのつゆに入れようとしました。

なんと!かき揚げも入れて、ひき肉も入れるのか!
小食の母にしては、えらいボリューミィな食事だなと思い、「かき揚げもあるよ」と母に伝えると、「かき揚げあるならひき肉は入れない」と冷凍庫に戻した母。

1分前に出したかき揚げのことを母は忘れていたのです。

スポンサーリンク

二世帯住宅だけど一人暮らしの母

我が家は二世帯住宅で、お互いの住居が廊下でつながっています。
しかし、これまで生計も暮らしもまったく別々にしてきました。

だから3年前に父が亡くなり、母の記憶障害が進んでも、自分の身の回りのことはまだできるので、日中は母が1人で留守番をしています。

父が亡くなった直後は、母も混乱していたので、当時はしょっちゅう何かが紛失し、毎日同じ話の繰り返しに辟易しつつもなんとか我慢してきました。
しかし、さすがに私のことを泥棒だと言った時には、震え泣き叫びました、私。

ただし、母のその言動が、介護認定してもらうきっかけとなったのですから、今となってはよかったと思っていますけどね。

要支援1から要介護1となった昨年は、訪問介護サービスを受けることを母に納得してもらい、週3回ヘルパーさんに来ていただき、掃除と昼食を作っていただいています。

時々母は「お昼ご飯くらい自分で作れる」などと言ってヘルパーさんを悩ませているようですが、そこは上手に対応していただき、毎回ヘルパーさんが作った昼食をいただいているんですよね。(笑)

子育てと介護のちがい

母が料理をしている姿をみて、ふと子どもたちが小さかった頃を思い出しました。

当時、夕方に放映される子供向けの料理番組があり、それをみていた子どもはやたらと台所で料理をしたがりました。
まだ小学校に上がる前だったと思います。

子どもと一緒に台所に立ちながら、野菜を洗ったり食材を混ぜたり、時には包丁で切らせたり。
危険のないよう見守りつつ、ハラハラしながら子どもと一緒に台所に立つのは、楽しい時間でもありました。

もちろん子どもは上手にはできませんし、時には失敗もしますし、ボウルをひっくり返すということも多々あったわけで、だけど私は不思議とイライラしなかったんですよ。

それなのに。
母が何かを間違えたり忘れたり、できなくなっていく姿に、なぜ私はイライラするんだろう?
そして、ようやく子どもと母の違いに気が付いたのです。

成長途中にある子どもは、できなくて当たり前だと思っているから

人生経験を積んで自分よりも長く生きてきた親に対しては、できて当たり前だと思っているから

子どもが何か失敗しても、これが良い経験となり成長していけると思っているから、温かく見守れる。(もちろん子どもにもイライラすることはありますけど)
しかし、自分の親ができなかったり失敗したりすると、なんでできないの?まだできるでしょ?思い出してよ、やれるでしょ?という気持のほうが強くて、だからイライラするのです。

子どもに対しては、今できなくても明日はできる、という明るい希望があるけれど、親に対しては、今できなければ明日はもっとできなくなる、という暗い失望が伴うのです。

だけど、子育てと介護の違いは、成長と退化(老化)の違いであって、その瞬間瞬間を切り取れば、手を添え見守るという気持ちは一緒なはず。

そんなことに気が付いたのです。

高齢だから、認知症だからと、母のことを頭では理解していても、まだ私は理解が足りませんでした。

出来て当たり前だと思っていた母のことを、できなくて当たり前だと思って、子育てしてきたわが子と同じように手を差し伸べていこう。

そんなことを父の3年目の命日に思いました。

 

コメント

  1. でぶねこ より:

    お父様がなくなって3年、いろいろなことがあったのですね。
    親は高齢になると、どんどん子供にかえっていくと言われますが、本当にそうですよね^^;
    とくに認知症になると自制心がなくなり、思ったことをそのまま言ったり、ありもしないことを言ったりして、家族を困らせるようになります。
    でもそらはなさんが言う通り、「当たり前」に思うことをやめれば、お互いによい関係が気付けます。
    私も最近はすぐ言い訳をする義母を「子供みたいだなあ」と思うようになり、気持ちが少し楽になりました。とはいえ、先日デイサービスからの洗濯物に尿取りパッドが入っていて、その日に限って気が付かなかった私、洗濯物は吸収ポリマーでドロドロに。。。
    義母にその洗濯機を見てもらったのですが、まるで他人事のような反応で、一瞬怒りがこみ上げましたが、なんとか思い直すことができました(^^;)

    そらはなさんが素直な気持ちをこうしてブログに書いて下さると、認知症の家族を持つ人は、皆同じような気持ちなんだなあと思えて、ホッとします。自分だけとかじゃないんだと思えることって大事だなあと、改めて考えました。

    • そらはな より:

      でぶねこさんへ♪
      頭では理解していて、これが自分の親ではなく他人様のことだったら、もっとやさしく接することができると思うのですよ。
      だけど自分の親だからこそ、情けなかったり悲しかったり、いろんな感情が渦巻いて、うまくいかないものなんでしょうね。
      ああああー。尿取りパッドを洗濯!!大ショックですね~(T_T)
      だけどその怒りをお義母にぶつけたところで、高分子吸収ポリマーがきれいになるわけではないのですから、気持ちを呑み込むって本当に大変です。
      先日、母に頼まれたニベアクリームを買って母に渡したときのこと。
      数分後、母が私の部屋にやってきて言いました。
      「こんなもの、買い物に頼んでいないよ」という母の手には、お風呂掃除用洗剤、しかも使いかけのものがありました。
      洗面所にあった洗剤を、私が買ってきたものだと思ったらしいんですよね。
      それはずーっと前からそこにあったものなのに、なんで今頃?と思うと、笑ってしまいました。
      ああ、私、母との会話で笑えるようになったんだー、と、その時思いましたよ。

  2. るり玉 より:

    そらはなさん、こんにちは。

    川1本挟んだところに住んでる義母。
    色々問題が出てきてストレスの沼にハマっている私です。
    通い介護の生活ですが、
    「義親の近くに住む長男の嫁は損」そんなネガティブな感情に支配されてる現在です。
    介護とは無縁の友人などを見ていると羨ましくてため息が出ちゃいます。

    あぁ、ネガティブ。
    抜け出したいわ。

    • そらはな より:

      るり玉さんへ♪
      あ~。なんだかわかるような気がします。
      微妙に近い場所にいると、いろいろな問題がすべて降りかかってきますよね。
      逆に、実の親であっても遠く離れて住んでいると、物理的にすぐにどうこうできないですから、心配な面もあるけれど、ある意味余計なストレスも抱えずにすむのかもしれません。
      人は人、自分は自分。
      与えられた環境で、自分が楽しく生きる道を見つけましょうよ、お互いに(#^^#)