認知症の母と過ごす面会で、そっと訪れる「小さなお別れ」

母はグループホームで暮らしています。

認知症はゆっくり進んでいますが、今も自力で歩き、紙パンツも使っていません。

この日は午前中、職員さんたちと公園へつつじを見に行ったそうです。

がっかりするのは「覚えていないこと」ではない

「きれいだった?」

そう聞いてみましたが、母はまったく覚えていませんでした。

もちろん、覚えていないことはわかっています。
私がいつもがっかりするのは、「覚えていないこと」そのものではありません。

母は少し不機嫌そうに言いました。

「つつじ?イマドキ誰がそんなもの見に行くって言うのよ!」

せっかく連れて行ってもらったのに…。
そう思ってしまう私は、まだどこかで“以前の母”を求めているのだと思います。

止まらないおしゃべり、でも噛み合わない

母は相変わらずよくしゃべります。しかも、ずっと。

けれど今回は、話があちこち飛ぶことが気になりました。

食事の話をしていたかと思えば、急に孫の名前を並べ始める。
そして突然、
「昔はみんな肺病で死んだものよ」
と真顔で話し出す。

昔の記憶は鮮明なのに、今日の出来事は残らない。
認知症とは、こういうことなのだと改めて感じます。

前回の面会では、みんなで大笑いした

前回は、帰省していた次男と長女も一緒でした。
孫たちが来たことで、母の表情がいつもより明るくなりました。

次男に向かって突然、「適齢期なんじゃないの?」と一言。

驚く私。

母が認知症になってから、そんな言葉を聞いたことがなかったからです。

次男が笑いながら、「おばあさん、誰かいい人紹介してよー」と言うと、母は即座に、

「そんなもの、自分で探しなさいよ!」とピシャリ。

その瞬間、そこにいたのは“認知症の母”ではなく、昔から口が達者で、家族にズバズバ言っていた母そのものでした。

子どもたちの言葉が、うれしかった

帰り道、子どもたちは言いました。

「おばあさん、全然元気だよね」「むしろ家にいた頃より元気になってない?」

その言葉が、私はなんだかうれしかったのです。

94歳で歩けて、よくしゃべって、冗談まで返せる。
そんな母を、少し誇らしく感じていました。

だから今回の面会は、少しこたえました。

母の話が、以前より明らかに噛み合わなくなっていたからです。

少しずつ遠くなる母と、繰り返す“小さなお別れ”

認知症の介護は、突然終わるものではありません。

少しずつ、少しずつ、知っている母が遠くなっていく。

会話がズレる。
以前のように通じ合えない。
同じ景色を共有できなくなる。

そのたびに、心の中で「小さなお別れ」を繰り返している気がします。

それでも母は、今も人と関わろうとしています。
怒ったり、しゃべり続けたり、ズバッと言い返したり⋯。

それもまた、母の生命力の強さなのだと思います。

きっと、誰もがいつか通る道。

母に会いに行くたびに「小さなお別れ」が胸をギュッと締めつけるけれど、私はいつかの自分のために、会いに行っているのかもしれません。

 

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