母は今、グループホームで暮らしています。
93歳、認知症です。
かつて長年過ごしてきた家とはまったく違う場所。
けれど、母はそこを「自分の家」だと思っているのです。
その姿を見て、私はずっと不思議に感じていました。
母にとって「家」とは、いったい何なのでしょうか?
母の「今」の暮らし
母は、グループホームの食堂で他の入所者とともに日中を過ごしています。
散歩に出かけたり、お花見を楽しんだり。スタッフの皆さんの温かい支援のもと、穏やかな毎日です。
食事や入浴、身の回りのこともすべてお任せできる環境。
かつて一人きりだった時間は、もうありません。
それでも母は、自然な表情でそこにいて、まるで何十年も暮らしてきたかのように、「ここが自分の家」と言います。
「今」の記憶が現実になる
認知症が進行すると、短期記憶が失われやすくなり、新しい記憶と古い記憶が混ざり合うといわれます。
母にとっては、かつての暮らしよりも「今、目の前にある生活」のほうがリアルな現実。
毎日同じベッドで目覚め、同じ場所でごはんを食べる——。
そんな“繰り返し”の積み重ねが、「ここが自分の家」という感覚を育てているのかもしれません。
安心と予測のある暮らし
グループホームでは、スタッフの方々が毎日変わらぬ声かけをしてくださり、決まった流れの中で生活が営まれています。
認知症の人にとって、「変わらない毎日」は大きな安心材料。
在宅で過ごしていた頃は、母はちょっとした物音に敏感になったり、予定外の出来事に混乱したりしていました。
今は毎日がほぼ同じリズムで進み、安心して過ごせる環境があります。
その心地よさが、「ここが私の居場所」と感じさせてくれているのでしょう。
「家」は建物ではなく、心が安らぐ場所
最近、私は思うのです。
「家」とは、必ずしも物理的な場所ではないのかもしれないと。
とくに認知症の方にとっての「家」は、
- 安心できる場所
- 優しくされる空間
- 自分の存在が受け入れられていると感じる場所
そんな心の感覚が満たされる場所こそが、「家」なのかもしれません。
母の言葉に救われた日
先日、母を訪ねたときのこと。
私の顔を見た母が、こう尋ねました。
「どこから来たの?」
私は、かつて一緒に暮らしていた家の住所を伝えました。
すると母は、穏やかに笑ってこう言ったのです。
「まあ、私と同じところに住んでいるのね」
記憶の中の私は消えていても、今ここにいる私と母の心は、どこかでちゃんとつながっている——そう思えました。
「家に帰りたい」と言わない理由
母は、老健やグループホームに入所してから一度も「家に帰りたい」と言ったことがありません。
最初は、それがとても不思議でした。
でも今は、それこそが「安心して暮らせている証」なのだと感じています。
記憶が薄れても、心が穏やかならそれでいい。
たとえ家族の顔や名前を結びつけられなくなっても、母が笑顔でいられることが、私たちにとって何よりの幸せです。
心が安らぐ場所をつくるということ
認知症は、記憶を少しずつ手放していく病です。
以前は、それがとても悲しいことに思えました。
けれど、悲しんでいるのは家族であって、本人が「今」を安心して生きられているなら、それはきっと“幸せな今”なのかもしれません。
“今”という時間を新しい形で生きている母の姿を見るたびに、
「家とは、形ではなく心が安らぐ場所なのだ」と、改めて気づかされます。
そして私自身も、今ある暮らしを、心から安らげるものにしていきたい。
そう思います。
コメント
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色々なアレコレを乗り越えて、
お母さまと心から手を取り合えていることに!!
たとえネガティブな感情であっても無かったことにせず、ひとつひとつじっちょくに向き合ってきた成果と思いました。
素晴らしいですね。
以前お母様への気持ちの葛藤についてコメントしたところ、涙が出るほどうれしく繰り返して読んだと返していただいた者です。
乗り越えられた今を心から祝福しています。
母が認知症になって混乱していたように、あの頃の私も母以上に混乱していたのかもしれません。
今は、お互いが心穏やかにいられるので、あらためて介護は家族だけで背負うものではないのだと、実感しています。