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認知症の親のために何かをしてあげるという考えは捨てる

高齢の母のために、良かれと思って何かをすることは、ボランティア活動のようにも思います。
私自身が自分の意志で、自ら進んで行っているのですから、無償の活動です。

決して対価を求めているわけではありませんが、心のどこかで母から「感謝されたい」という気持ちは少なからずあります。
しかし、認知症である母にそれを求めるのは無駄なことなのでしょう。

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体験したことはすべて忘れる

日常生活の中で、いつもと違った出来事を体験しても、認知症である母はそれらを丸ごとごっそり忘れてしまいます。
わずか数秒前の出来事も、右から左へ風景が瞬く間に流れて消えていくように、記憶をとどめておくことはできません。

例えば、姉が訪ねてきて母と私と3人で一緒にお昼を食べたとしても、姉が帰ったとたん母の頭の中からそれらの記憶は消えてしまいます。
キッチンの水切りかごにある数枚の洗ったお皿をみて、母は「なんでこんなにお皿があるんだ」と言います。

亡くなった父のお墓参りに母を連れて行き、一緒にお花を供えても、家に帰ると母はなにひとつ覚えていません。

顔にできた隆起したアザ(老人性の良性のイボ)が気になるというので、母を病院へ連れていきましたが、すぐにアザが消えるわけではないので、母は毎日「病院でアザをみてもらいたい」と言いにきます。

これが認知症なのだとわかっていても、毎回やるせない気持ちになります。

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無償の奉仕活動

母のために良かれと思って取る行動は、私が自ら進んで行っているのですから、それはまるで無償の奉仕活動のようにも思います。

時に、母に頼まれて何かをする行動も、母が暮らしていくうえで困らないようにするためであるので、そこに何か見返りを求めているわけではありません。

母への恩もあります。
母が残された人生を穏やかに過ごしてほしいという願いもあります。
母の変わらぬ平穏な毎日は、私自身の幸せでもあります。

だけど、どこかで母に対して、私がこれだけ母のためにあれこれやっているのだから、少しは感謝してほしい、という気持ちもありました。

しかし、それを母に求めるのは難しいのでしょうね。
だって母は認知症。
新しい記憶はどんどん消えていきます。
だから、母のために良かれと思って何かをするのは、もうやめようと思いました。

頼まれたことを淡々とこなすだけ。
こうやったら母が喜ぶかな?とか、これを見せたら母がうれしいかな?なんていう考えは捨てようと思いました。

その瞬間を生きている

しかし、です。
その瞬間を生きている母にとって、一瞬でも楽しいと思える時を刻むことは、うれしい、楽しいといった幸せな感情が残ります。

それがどんな出来事だったのかは覚えていなくても、幸せな感情が漠然と残っていれば、それでいいではないですか。

「今日、お墓参りに行ったよね」とか「病院でアザを診てもらったよね」などなど、いちいち母へ行動の確認をするのはやめようと思いました。

私が母のためにできることは、母が毎日同じ日を繰り返すことができるよう、目の前の不安を取り除くこと。

この先のことは考えてもどうにもならないのだから、今、この瞬間が良ければそれで良し!
そう思うことで、私自身の気持ちも少しは楽になりました。

 

コメント

  1. でぶねこ より:

    まったく同感です^^
    症状もまったく同じ~と思いながら読みました(笑
    来週末、義母の妹が田舎から来ることになりました。
    携帯での話では、義母の様子がなかなかわからないからなのでしょう。
    理解できない、すぐ忘れてしまう、そういうことが電話では伝わらないし、会って話すことで楽しい時間を過ごすことができるなら、それはよいことだと思うから。
    緊急事態宣言もでていますし、ワクチン接種もまだなのですが、もし万が一、コロナになったとしても、会わずに亡くなるより会って亡くなるほうがよっぽどいいと、私は思います。
    母を亡くして、そう強く思うようになりました。

    • そらはな より:

      でぶねこさんへ♪
      50歳を過ぎたころから、「会いたい人に会いに行く」という計画を立てていましたが、まさかコロナでこんな世の中になろうとは・・・。
      でぶねこさんのお義母さまも、妹さんと楽しい時間が過ごせるといいですね。

  2. 白雪さくら より:

    何でもすぐ忘れてしまって、何をしても意味がない、毎日がただの時間の無駄にしか思えない…と悩んでいた人に、
    それは毎日の食事のようなものですね、と言っていた人がいました。
    毎日三食ごはんを食べるけど、
    何を食べたかは忘れるし、食べたものは消化されて消えてしまい、何も残らない。
    でも、じゃあ食べたものは意味がなく無駄かというと、決してそんなことはないですよね、と。
    呼吸する空気もそうですね。吸って、吐いて、ずっと呼吸し続けなきゃいけないけど、空気自体は残らない。
    お母様の体験も、そういうものなのかもしれません。
    すぐ忘れてしまうとしても、決して意味のないものではない、大切な時間です。
    そらはなさんがおっしゃるように、出来事の記憶は残らなくても、幸せな時間を過ごすこと、その時その時をポジティブな感情で生きることは、とても大事です。

    感謝してもらいたいという気持ちは、よくわかります。
    自分がよかれと思ってしたこと、共有した時間が、相手に何も残っていなかったときの空しさも、とてもよくわかります。
    でも…仕方がないのですよね。そういう病気なのです。
    お母様自身にもどうにもできない、脳の機能の問題なのです。
    でも、それを受け入れ難いのもよくわかります。
    たとえばこれが目の機能の問題であれば、視力を失った相手に対して「これを見てほしい!」という過酷な要求はしません。(これはあくまでたとえであって、視覚障碍をどうこう言う意図はありませんが、視覚障碍のある方や関係者には不愉快かもしれません、その点は申し訳なく思います。ただ私にとっても視覚障碍は決して無縁ではありません)
    お母様に喜んでほしい、いい記憶を共有したいというそらはなさんの願いは、切実なものだと思います。
    少しでも、お母様の脳機能を改善させたいという思いもおありだったでしょう。
    でも、不可能なことは不可能だと受け容れて、明らめること、とても大事ですよね。
    目が見えないなら、別な方法でいろんな情報を伝えられるように工夫します。
    それと同じように、記憶が残らないなら、そういうものとして、一緒によい時間を過ごす工夫をすることになりますね。
    そらはなさんご自身が、ポジティブで、幸せな気持ちでいることも、とても大切だと思います。
    感情って伝わりますものね。一緒にいるそらはなさんが、ただお母様と一緒に過ごす時間を楽しむだけ(何とかしようとか、考えず)でも、いいと思いますよ。
    そらはなさんには記憶が残るけど、お母様には残らない、ただそれだけです。記憶が残るか残らないかなんて、どうでもいい!
    だったら、幸せに過ごした者勝ちです(#^.^#)
    報酬があるなら、「今・この時を生きる」ことの大切さに気付き、幸せな時間を過ごせたことですね。
    いつも偉そうにすみません、
    そらはなさん、どうぞご自愛くださいね。
    そらはなさんがご自分の心を守り、幸せでいることが、お母様の平穏な日々の源泉にもなりますから…

    • そらはな より:

      白雪さくらさんへ♪
      ご飯を食べたり呼吸をするって、毎日当たり前のことになっていますが、言われてみれば自覚がないからといっても無駄なことではないし、とても大事なことですね。
      認知機能が低下して、どんどん忘れていってしまっても、今を生きている人にとっては、その瞬間瞬間が大事なわけで、その瞬間が幸せに感じられたらそれでいいのですもんね。
      それを覚えていないからといって、第三者が怒ったり悲しんだりする必要もないですからね。
      認知症の人とのかかわり方は、深く考えず受け流すことだといいますが、いつまでもこだわっているのは私のほうなのかもしれません。
      もう少し、気楽に考えたいです。
      いつもありがとうございます。