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広島平和記念資料館を訪れて|戦後80年の今、感じた「生きる」ことの意味

広島に行くなら、どうしても訪れなければと思っていた場所がありました。
それが「広島平和記念資料館」です。

“いつかは行かなければならない場所”──
心のどこかでそう思い続けてきたその場所に、戦後80年という節目の年にようやく足を運びました。

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静かな空間に立ち尽くす

館内に入ると、空気が少しひんやりと感じられました。
人の声もほとんどなく、ただ映像の光と静かなナレーションだけが空間を包みます。

最初に展示されていたのは、被爆前の広島の街を再現した円形ジオラマ。
その上に、原子爆弾が落とされた瞬間の映像が映し出されます。

一瞬で街が消え去っていく──その現実を想像しただけで、涙がこみ上げました。

「やばい、私。まだ入口なのに、もう泣きそう…」
そう思いながらも、足を止めずに前へ進みました。

以前ここを訪れた娘から、「途中で具合が悪くなって出てきた」と聞いていたので、正直なところ少し不安でした。

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8月6日のヒロシマ

渡り廊下を抜けて本館に入ると、そこはまるで時間が止まったような空間でした。

白黒の写真、被爆者の絵、瓦礫や衣類が静かに語りかけてきます。

“生々しい”という言葉では足りません。
けれど不思議と、私はそれらを直視できました。

写真が白黒であったこと、そして何より「見届けなければ」という思いが勝っていたのかもしれません。

しかし、私の心を最も打ったのは、モノではなく“言葉”でした。
故人の写真や遺品のそばに添えられた短い文章──。

そこには、戦争の残酷さではなく、「人の命」が確かにありました。

中でも、忘れられないエピソードがあります。

「父の背中に無数のガラス片が刺さっていて、“ペンチで抜いてくれ”と言われました。
でも、5歳の私には無理でした。」

想像しただけで、胸が苦しくなります。

小さな子どもの無力感と、父親の痛み。
その一文の中に、どれだけの悲しみと現実が詰まっているのか。
静かに目を閉じるしかありませんでした。

そこに並ぶのは、単なる“遺品”ではなく、“生きた証”。
確かに息づいていた人の人生が、ひとつひとつの物語となって今もそこに在る。

白黒の写真は時間の彼方にあるのに、その下に添えられた言葉が今を生きる私にまっすぐ届いてきました。

「建物疎開」という言葉を知る

資料館で初めて知った言葉があります。
それは「建物疎開(たてものそかい)」。

空襲の延焼を防ぐため、家を壊して防火帯をつくる作業のことです。

原爆が落とされるその日も、多くの市民や学生がその作業の真っ最中だったそうです。

まだ未来を信じて働いていた人たちの上に、一瞬で光が落ちた──その現実を思うと、言葉を失いました。

毎年テレビで見てきた平和記念式典。
あの祈りの場面の意味を、私はようやく自分の心で理解した気がします。

戦後80年を迎えて

戦後80年。

被爆体験を直接語れる方々が少なくなっている今、残された「声」や「記録」が、何よりも貴重な証言になっています。

それをどう受け止め、どう次の世代へ伝えていくのか。

それが、今を生きる私たちに託された大切な役割なのだと感じました。

折り鶴に願いを込めて

資料館を後にして、おりづるタワーへ向かいました。

高層階から見渡す広島の街は、光にあふれ、穏やかな風が吹いていました。

80年前、焼け野原だったとは思えないほど、美しく力強い街並み。
人々のたゆまぬ努力と祈りの積み重ねに、胸が熱くなります。

12階のおりづる広場で、久しぶりに折った折り鶴は少しいびつでした。

けれど、ガラスの壁からひらひらと舞い落ちていくその姿を見ていると、
「生きている」ということが、どれほど尊く奇跡的なことなのか、改めて思いました。

 

「子どもの頃は、明日死ぬかもしれないと思って生きてきた。

80歳を過ぎた今は、明日死んでもいいと思えるような、後悔しない生き方をしたい。」

──亡き父の言葉を思い出しました。

 

静かに風が吹く広島の空の下で、
「いまを大切に生きる」ということの意味を、改めて心に刻みました。

 

 

※平和祈念資料館を訪れたのは9月27日のこと。考えさせられることが多すぎて、このブログ記事を書くのに2週間もかかってしまいました。

 

 

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