引っ越しの最中、業者さんが差し出した“千円札”を受け取れなかったわけ

引っ越しの最中、業者さんが差し出したのは千円札でした。

「すみません」と言われても、私はそのお金を受け取れませんでした。

——30数年前の、ほんの小さな出来事です。

あのときの、小さな違和感

荷物を運び込んでいる最中、大きなタンスがどこかにぶつかり、その衝撃で取っ手がぽろりと落ちました。

業者の方は申し訳なさそうに、千円札を差し出してきました。

けれど私は、受け取れませんでした。

責めたいわけでも、困らせたいわけでもありません。

ただ——
「ここでお金を受け取ったら、この出来事は“なかったこと”になってしまう」
そんな気がしたのです。

当時は、今のように補償制度が整っていない頃。
現場で起きたことは、その場で収める。
そんな空気がまだ残っていました。

お金ではなく、“手間”で返ってきたもの

「お金は要りません」と伝えると、その方はその日のうちに似た取っ手を探し、取り付けに来てくれました。

タンスの色とは少し違う取っ手の色。
でも、その手間を思うと、申し訳なさと同時に、ありがたさが胸に残りました。

気づけば、私はその後、取っ手の色が違うことすら忘れていたほどです。

時代が変わると、引っ越しの風景も変わる

あれから30数年。
家のリノベーションが終わりに近づき、私はいま、人生最後になるかもしれない引っ越しを迎えようとしています。

4ヶ月前、仮住まいに移るときにお願いしたのは、冷蔵庫とドラム式洗濯機だけ。
それでも、引っ越し業者の仕事ぶりは驚くほど丁寧でした。

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床や壁の養生、ご近所への挨拶、スタッフ同士の声かけ。
すべてが整っていて、動きに無駄がない。
私たちへの言葉遣いも、とても丁寧。

「ああ、時代はこんなにも変わったんだな」

そう思ったとき、あの“取っ手の出来事”がふとよみがえりました。

仕組みと誠意、そのどちらも

もし今、同じことが起きたら——
対応はきっと、もっと仕組みとして整っているのでしょう。

昔は現場の判断や個人の誠意に委ねられていたことが、今は会社としての責任とルールで支えられている。

あのとき取っ手を探して取り付けに来てくれた、あの人の行動も、
その時代の中での“正しさ”だったのだと思います。

ゆっくり整えていく、これからの暮らし

あのタンスは、2年前に手放しました。

それなのに今になって、あの小さな違和感と、あとに残った温かさを思い出しています。

今回の引っ越しでお願いするのも、また冷蔵庫と洗濯機だけ。
それ以外は、自分たちの手で少しずつ運び出すつもりです。

若い頃のような勢いはありませんが、その代わりに——
「これからの暮らしをどう整えていこうか」
そう考えながら動く、静かな時間があります。

引っ越しの記憶というのは、大きな家具の移動よりも、案外こういう小さな出来事のほうが心に残るものなのかもしれません。

 

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