「皇室に縁のある神社なんだよね」
──そんなぼんやりした知識しか持たず、私は伊勢神宮を初めて訪れました。
せっかくなら、しっかり学んで参拝したい。
そんな思いで伊勢神宮案内人であるガイドさんを頼んだのですが、それは正解でした。
看板のない神域で、導かれるように知ること
伊勢神宮の広大な境内には、ほとんど案内板がありません。
知識がなければ、そこがどんな意味を持つ場所なのか気づかず通り過ぎてしまうことでしょう。
ガイドさんは、手水の作法や参拝の順序、外宮と内宮の違いなど、丁寧に説明してくれました。
一つひとつの所作や構造に意味があることを知ると、風景の見え方が変わっていきます。
とはいえ、個人的にはもう少し神話や歴史の“裏話”も聞きたかった…。
そんな思いが残るなか、ふと印象に残ったのが、ガイドさんの口からたびたび出てきた「出雲」という言葉でした。
出雲大社を、ちょっと意識してる…?
「出雲ではこうですが…」
「出雲とは違って…」
説明の中で何度も出てきたこの言い回しに、私は思わずこう感じました。
「 伊勢神宮って、出雲大社をちょっとライバル視してるのでは…?」
もちろん、これはあくまで私の主観。
でも、そう思ったことでかえって、伊勢と出雲の関係が気になって仕方なくなりました。
天照大神と大国主命――“国譲り”でつながる二柱の神
伊勢神宮の主祭神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)。
太陽の神であり、皇室の祖先神、そして国家を守る存在として祀られています。
一方、出雲大社のご祭神は、大国主命(おおくにぬしのみこと)。
「国づくりの神」として知られ、人々をつなぐ“縁結びの神様”としても広く信仰されています。
この二柱の神は、兄弟でも親子でもなく、まったく別系統の神様です。
けれど、日本神話においてはとても重要な接点があります。
それが有名な「国譲り神話」。
大国主命が築いた豊かな国土を、天照大神が「我が子孫に治めさせたい」と申し出ます。
大国主命はその申し出を受け入れ、代わりに自らを祀る神殿の建立を願います。これが、出雲大社の由来。
伊勢の天照大神は「治める神」
出雲の大国主命は「譲った神」
神話の中に垣間見える“神々の力関係”。
そして、神様もなんだか人間っぽいなぁ…なんて、親しみも湧いてきました。
神無月でも神様がいる? 伊勢神宮だけの特別な意味
参拝の途中、ガイドさんがこんなことを教えてくれました。
「神無月(10月)でも、伊勢神宮には神様がいらっしゃいますよ」
「えっ、神無月って神様がいないんじゃないの?」と驚きましたが、あとで調べて納得しました。
◇ 神無月とは
旧暦10月は「神無月」。
これは、全国の神様が出雲に集まるため、地元の神社から一時的に神様がいなくなる、という伝承に基づくものです。
でも伊勢神宮だけは違います。
天照大神は、国家を護るため常にこの地に鎮座しているのです。
つまり、伊勢神宮はいつでも「神在りの地」。
神々が旅立つ神無月でさえ、変わらずにそこにいる神様。
伊勢神宮の“別格感”が、こんなところにも表れていました。
朝5時、再び内宮へ──“神の気配”に包まれる朝詣り
翌朝5時すぎに再び内宮を訪れました。
それは、ぜひ体験したいと思っていた「朝詣り」のため。
まだ夜明けの余韻が残る時間。
玉砂利を踏みしめる音が静寂に吸い込まれていく。
人影はまばらで、森全体が神域のように感じられます。
内宮本殿前には、すでに警備員さんが立ち、荘厳な雰囲気が漂っていました。
そして6時ちょうど。
正装をした50名ほどの団体が、参道を進んでくるのが見えました。
企業の方々でしょうか。創業祈願、あるいは社運をかけた参拝かもしれません。
その真剣な姿から、伊勢神宮が今も特別な“祈りの場所”であることを、強く実感しました。
ふと見上げると、樹齢何百年かと思われる大木。
その枝には、夏みかんのような実がなっていました。
自然すらも、ここでは神の領域のように思えてくるのです。
神話は、遠い昔の話じゃなかった
伊勢神宮を歩いていると、何気ない風景が、神話の一場面に見えてきます。
「ここが倭姫命(やまとひめのみこと)が神宮の地を定めた場所です」と聞けば、ただの森が“神話の舞台”に変わる。
知識があることで、風景は深く、豊かに見えるのだと実感しました。
そして今、心に芽生えているのは新たな旅の予感。
今度は出雲大社を訪れたい。
神話の続きを、自分の足でたどってみたい──。
伊勢神宮は、神話の世界をただ“読む”のではなく、
自分の身体で“感じる”場所。
学生の頃は、古事記なんてまったく興味がなかった私。
それなのに、こんなにも神話の世界に心が動くのは――やっぱり、伊勢神宮パワーのおかげなのかもしれませんね。

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