昨年から、実家のモノを少しずつ整理、処分しています。
父の死後、母は頑なに父の遺品を整理するのを拒み、基本「そのままにしておく」というのが母の言い分でした。
そんな母と向き合いながら、実家の不用品を整理、処分する方法について考えました。
死んだら全部捨ててくれ
3人の子どもたちが家を出たことをきっかけに、少しずつ家の中を片付けてきました。
もう家に戻ることはないであろう子どもたちの部屋の、古いタンスや机は処分しましたが、実家の納戸や押入れには、相変わらず使わずに詰め込まれたモノがあふれています。
以前、母にそれらの整理と片付けを提案したら、
「家の中のものは、私が死んだら全部捨ててくれ」
と、言われました。
なぜ今じゃないのでしょう。
なぜ、自分が死んでからと言うのでしょう。
自分のモノは、自分で処分してくれないと、遺された者はもっと困ることになるというのに。
父の遺品
そんな中、父が急逝しました。
前日まで元気だった父が遺したモノは、それはそれは膨大でした。
生活に支障が出るようなモノは、半年くらいかけて処分しましたが、そこから先は片付けが頓挫しました。なぜなら、母が頑なに拒んだからです。
一周忌までは、このままにしておく。
三回忌が過ぎるまでは、捨てられない。
母はその都度、遺品整理を先延ばしにしてきました。
私もこれ以上母と衝突するのも嫌なので、母の好きなようにさせることにしました。
寝室には、今も母のベッドの隣に父のベッドが寒そうに置かれています。
父が使っていた洋服箪笥も、中がガランと空いたまま置かれています。
父のパソコンやデスクも、居間の片隅にホコリをかぶったままになっています。
それで母の気が済むのなら、もうこれでいいのだと思うことにしました。
今年、父が亡くなってから5年目がやってきます。
誰にも迷惑をかけないという母の言い分
母は昭和一桁生まれの、戦後の貧しい時代を生き抜いてきた人です。
幼少期に父親を亡くし、母親は飲食店を経営しながら女手一つで母を含む子ども3人を育てました。
そんな話を聞くと、母がいかに苦労して生きてきたのかがよくわかります。
「いただいたものだから捨てられない」
「古くなったものでも、捨てるのはかわいそうだ」
私が片付けを提案すると、母は決まってこう言います。
そして最後には、
「モノがあったって、誰にも迷惑をかけていないのだから、このままにしておいて何が悪い」と。
たしかに、納戸に詰め込まれたモノ、押し切れの中に高く積まれたモノ。
扉を閉めてしまえば視界に入らないし、そこに新たに何かをしまうわけでもないのだから、誰にも迷惑をかけていないと言われればそのとおりです。
また、父のベッドや箪笥も、今までそこにあったものなので、片付けなくても誰も困る人はいません。
でも、母が亡くなったらそれらを片付けるのは私なのです。
しかも、そのときに私が元気でいられるのか、気力や体力が残っているのかなんて、わからないのですよね。
だから、今から少しずつ整理処分していきたいと思っているのに、母にはそれが通用しません。
それどころか、
「昔の人はみんなそうやって片付けてきたんだから、当たり前だ」
と言い、もう母には返す言葉もありません。
捨てられない性分
母がモノを捨てられないのは、モノには魂が宿っていると思っているからかもしれません。
私が、壊れたり古くなったモノを処分しようとすると、必ず母は「かわいそうだ」と言うからです。
母は決して欲張ってため込んでいるのではなく、いただいたものやこれまで使ってきたものを捨てるというのが、できない性分なのでしょう。
生きてきた時代と、暮らしてきた環境と、親の教えが、そんな母の性格を作ったのかもしれません。
そして、高度経済成長の中で育った私は、モノに対してあまり執着がありません。
たとえ母に育てられた私でも、時代と環境が違えば、母と異なる考えになるのは致し方なく、どこかでお互い歩み寄る地点を見出していかなければなりません。
使いたいからちょうだい
そんなことに気づいてから、母には決して「捨てる」「要らない」という言葉は使わないことにしました。
そして、処分したいと思った時には
「これ、使いたいからちょうだい」と言うことにしました。
時には夫をダシに使い
「(夫が)仕事で使いたいんだって」と言うようにして。
すると母はうれしそうに
「どうぞ、どうぞ、使ってちょうだい」と言うのです。
この方法で、昨年は実家の居間にあったパソコンとデスクを撤去することに成功しました。
また、押入れや納戸にある贈答品などは、母には何も言わず処分しています。
もう母は2階の納戸に上がることはできないし、認知症であることも加わり、押入れの中に何が入っているかなんて、わからないのですから。
また、父の書斎にあった大量の本も、少しずつ処分しています。
いくつかは図書館に寄贈したりもしました。
母が暮らす空間で日常的に目にするものは、誰かが欲しがっていると伝える。
母が目に見えない場所のものは、いちいち母へ言わないでそっと処分する。
こんな感じで、今年も少しずつ実家の整理を進めていきたいです。
先日、父が収集した100枚以上のLPレコードを、ようやく買取業者に出すことができました。
納戸の中にしまいっぱなしだった贈答品は、メルカリへ出品しています。
コメント
こんばんは。
私も実家が荷物が多いので少しずつ元気なうちに進めたいのですが、こちらはありがたい事にまだしっかりとしており頑なに物を処分する事は拒まれています。
そして母はソラハナさんのお母さんと同じ私が死んだら好きにしたらいいと言っています。
でも今の2人のしっかり具合を見る所私の体力があるうちはまだまだご健在であろう事が予想出来ます。
本当に気が滅入りますが、実際その時に元気がなければ私の子供と孫も総動員してやろうと苛立ちを堪えている所です。
やっぱり昔の人の性分なんですかねぇ。ちなみに父はいまだにハードオフ等に出かけてはオーディオ類を手に入れて楽しげに分解、交換などしております。
これもボケ防止の一環になっているのかなぁと思う事に今はしています。
最近こちらは少し暖かくなってきました。
ソラハナさんもご体調に気をつけてお過ごしくださいね。
匿名さんへ♪
お父様、オーディオ類を分解、交換するなんて楽しそうでいいですね(#^^#)
人は、亡くなるときに自分の身の回りのものをすべて処分することは不可能なわけで、多かれ少なかれ遺された家族がそれらを処分整理しなければなりません。
私が実家の片づけをするのも、母のためにやっているというより、自分のためにやっているのでしょうね。
だからそれを母に押し付けてはだめなんでしょうけど、自分のこの先のことを考えると、今から少しずつやっておきたいというのが本音です。
お互いどこかで歩み寄る地点を見つけながら、今後もすすめていきたいものです。
こちらはまだまだ寒い日が続きます。
早く春になってほしい!
こんにちは。80代実両親とすんでいます。皆さん同様、長生きの分だけ、物はじわじわと増えています。自分が片付けられるうちにと、物置を占領していた父の工具を処分したら、逆ぎれ。父曰く、物がどこにあるかわからない、片付けは死んだらやれ!自分も片付けは譲れないので口論でした。共に暮らしていても、片付けは親とのバトルです。兄弟はいますが、親同様、モノを増やすタイプです。片付けは孤軍奮闘です。少ないモノですっきり生きたい!その一念で頑張ります。
匿名2さんへ
高齢の親の片づけ問題は、自分一人では解決できないのがもどかしいところですね。
自分のモノならサクサク捨てられても、親のモノはそうはいきませんものね。
私は現在、母のテリトリーは放置しています。
衝突するのもストレスになるので、もうなるようにしかならない・・・って感じでしょうか。
せめて自分自身は子どもに同じ思いをさせないようにがんばります。
いつも そらはなさんの記事を参考にさせて頂いています。初コメントです。
私の場合は実家の父が一昨年に亡くなりました。 母も物を捨てられない人で 四十九日 一周忌の法事の際に 形見分けをしたいからと母を説得し少しずつ片付けています。今年も三回忌の法事にかこつけて 残っている物を処分したいと考えています。
母より厄介なのが私の夫で 夫の父も一昨年亡くなりましたが 夫の意向で何も片ずけができていません。夫の母は足が不自由になってから私達と同居しています(現在認知症もあり)。空き家になった夫の実家にたくさんのものが残っていますが 夫は、置いていても困ることはない 母が亡くなってから片付ければいいと言い張ります。
夫の母はまだ長生きしそうですし 今でも片付け大変だなぁと思っているのに 私の気力体力が持つかしらと一人ヤキモキしています。
そらはなさんのブログ これからも楽しみにしています。
藤井風の沼人さんへ♪
こんにちは(#^^#)
ご実家のみならず、旦那様のご実家の空き家のことも考えなければならないのですね。
本当に大変ですね。
そのままにしておいても、「今は」誰にも迷惑はかけないのかもしれませんが、いずれそれらを背負うのは我が子だと思います。
となれば、やはり子どもたちには苦労させたくないので、私も少しずつ身の回りを片付けていきたいと思っています。
なかなか意見のちがう人と折り合いをつけるのは大変ですが、時間と言葉を重ねて良い方向へ向かうことが理想ですね。
お互いぼちぼちとやっていきましょう(#^^#)