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認知症の母に必要なことは間違いを正すことではなくできることを見守ること

相手をありのまま受け入れることってとても難しい。
増してやそれが、もの忘れがひどくなった自分の親であり母であった場合はなおさらです。
父が亡くなったことにより、母の記憶障害は顕著になりましたが、私はいつも母の言動にイライラしていました。
そして、以前の母のようにしっかりしてほしいという気持ちもあり、常に母の言動を正そうとがんばっていたのだと思います。

高齢の、もの忘れがひどくなった母に必要なことは、間違いを正すことではなかったのだと、3年経った今気づいたことがあります。

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母が軽度認知障害となった時

4~5年前から、たまに母の言動がおかしいなと感じることはありましたが、堅実で気の強い母がまさか認知症になるなんて思ってもいませんでした。
どちらかといえば、父が忘れてしまったことを訂正するのはいつも母の役目だったので、私も何か用事を頼む時は、母へ話していましたから。

3年前に父が亡くなったことで、母の記憶障害は顕著になりました。
数分前のことを覚えていない、何度も同じことを言ったり聞いたりする。
それだけならまだよかったのですが、理解力や判断力も低下した母は、突然声を荒げて怒り出すことがとても多くなりました。

元々気が強く、自分の価値観は絶対だと信じて疑わない母でしたが、父が亡くなってからは些細なことでも怒り出し、それに対して私も真っ向から反論したり、時には泣いて訴えるということがよくありました。
あの頃は、家に帰って母の顔を見るのが本当に嫌でした。

子どもの頃から、母に対しては苦手意識を持っていたものの、仕事をしながらもいつもおいしいご飯を作ってくれて、不自由なく育ててくれた母の堅実な生き方には尊敬する部分もあり、少なからず私も影響を受けていたのだと思います。

だからそんな母が認知症になってしまい、私もすぐには現実を受けれいることができませんでした。

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正しい知識が気持ちを救ってくれた

父が亡くなって、やらなければならない手続きは山ほどありました。
仕事が休みの日はすべてそれらの手続きに追われ、時には自分1人でどうしたらよいか判断に迷った時は、母に相談しました。

すると母は決まって怒り出すのです。
今思えば、記憶力も判断力も低下している母に、一気にいろんな情報を提供し、決断を求めるということで、母はさらにパニックとなったのでしょう。

母に「財産争いをする泥棒と一緒だ」と言われた時には、悔しくて情けなくて悲しくて、それなのに翌日には母はもう覚えていないのです。

どうにもやり場のない気持ちを救ってくれた場所が、図書館でした。

認知症に関する本を片っ端から読み漁りました。
高齢化社会の今、認知症という言葉はしょちゅう耳にしていました。
しかし、私は何一つ認知症についてわかっていなかったのだと、その時思い知らされました。

認知症の知識を得ることで、嫌で嫌で仕方がなかった母の言動も、少しは理解することができ、ほんの少し気持ちが楽になりました。
認知症の知識や情報は、まるでブラックホールにでも迷い込んだかのような私のドロドロとした気持を、救ってくれたのです。

母の言動を正そうと必死だった

認知症とは、認知機能の低下により生活に支障をきたしている状態のことを言います。
軽度認知障害(MCI)とは、認知症の前段階の状態。
記憶障害はあるけれど、日常生活動作はできるレベルです。

母は、記憶障害は著しいのですが、身の回りのことは自分でできます。
朝起きて、レンジで温めたりする簡単な食事もでき、洗濯機も使え、トイレもお風呂も自分でできる。(お風呂は私の家で入ってもらっています)
そう考えると、母はMCIなのかもしれません。

だから私は、母が忘れたり覚えていないことを正そうと必死でした。
まだ今なら、何度も母に言えばきっと覚えられるのではないか?思い出すのではないか?
母が間違った記憶を話すたびに、何度も強く言い聞かせたり、時にはイライラし怒って話していました。

そのことがまったく無意味だと知ったのは、父が亡くなって3年が経とうとしていた時でした。

母は昔のことはよく覚えているのに、数分前のことはまったく覚えていない。
どうして母は過去のことにこだわるのだろう。
そんな気持ちでいっぱいだったのですが、母の現実を受け入れられずに、過去にこだわっていたのは、誰でもない、この私だったのです。

母を受け入れることは母を認めること

母と話をしていると、どうしても会話にズレが生じて、結果、何を話しても無駄だと思うようになりました。
また、いつどこで母が怒りだすかわからないので、それが私にとっては非常にストレスで、余計なことは言わないようにしようと思っていました。

そんな時に、とある記事を読みました。

認知症の人は、相手が怒っていたり、悲しんでいたり、恐怖を感じていたりしてもよくわからないものの、嫌悪を感じたり、驚いたり、喜んでいたりするのは、ほぼわかるということです。ということは、認知症の人の言動に対して、こちらが怒ったり悲しんだりしてもあまり伝わらず、嫌悪感をあらわにすると、それは読み取られてしまうということ。

認知症の人と会話がギクシャクする背景 https://toyokeizai.net/articles/-/257426

私は、母が突然怒り出した時に「なんでそんな言い方するの?」「そんな言い方されたら私だって傷つくよ」と、泣きながら訴えていた時期があります。
子どもの頃は、母に理不尽な怒られ方をしても、何一つ言い返せなかった私でしたが、父が亡くなってからは嫌でも母と向き合おうと決め、ようやく気持ちを吐き出すことができるようになったのです。

ところがそんな私を見ても、母は何も言わないばかりか、少しすると何事もなかったかのように接してくるのです。
母は、私が怒ったり泣いたりしても、それがどういうことかよくわからなかったのですね。

また、母が何度も何度も同じ話をすると、しまいにはため息交じりに嫌な顔をしていた私を、きっと母は敏感に感じ取っていた。

それがお互い悪循環となり、ますます会話がギクシャクしてしまう。
そういうことだったのですね。

私は、認知症のことを少しかじったくらいで、理解していると思っていたけれど、全然わかっていませんでした。
そして、母のことをありのまま受け入れようと、いつもいつも自分に言い聞かせていたものの、それができていなかったのは、MCIになってしまった母を認めることができなかったから。

「認知症」の人と会話がギクシャクする背景
認知症になると、言語・非言語を含めてコミュニケーションにズレが生じますが、その根底には、注意や記憶、見当識、社会的認知な...

母ができることを見守る

堅実で賢い母が、どんどん物忘れがひどくなってきたとき、「今日は〇〇を忘れていた」とか「今日はこれができなくなっていた」など、私は母ができなくなったことばかりに目がいき、否定的な見方しかできていませんでした。

母は、朝定時に起きて着替えることができます。

温かいお湯を洗面器に入れて顔を洗うことができます。
玄関の施錠をあけ、郵便受けに新聞を取りにいきます。
食パンを焼き牛乳を温め、りんごの皮を剥いて、自分で直食をとることができます。
電話をとることができ、訪問者の対応もできます。
テレビをつけて見ることができます。
新聞を読むことができます。
私が持って行った食事をレンジでチンして食べて、皿を洗って返すことができます。
声をかけるとお風呂に入ることができます。
夜は玄関の施錠をして電気を消してベッドに入ることができます。
1人で留守を守れます。

母ができることが、こんなにたくさんあります。

できなくなったことを見るよりも、まだこんなにできるということを見つけると、なんだか私もうれしくなってきました。

母を認めてあげるということは、マイナス要素には目をつぶり、プラス要素だけを見守っていくということなのかな・・・と最近思っています。

私が作った甘酒を母に飲んでもらいました。
「おいしいね。懐かしい味がする」と、母は笑顔で言いました。
なんだかんだと母とはいろいろあったけれど、母が昔作ってくれた甘酒を、私もまた同じように作っている。
母がしてくれたことを、私も同じようにやっているんですよねぇ・・・。

 

ちょうどこの記事を書いていたら、友人からLINEがきました。

添付されていた歌がめちゃくちゃタイムリーで泣けました。

コメント

  1. ジャスミン より:

    樋口了一氏は 我が父と同じ病のかたですね…

    世の中の 治療がままならない病や症状を抱えている
    当人 その家族
    それらの人に
    まんべんなく手がさしのべられ
    苦しみが 少しでもやわらいで日々をおくれる
    そういう日が1日でも多く

    …そう願わずにはいられないです。

    • そらはな より:

      ジャスミンさんへ♪
      樋口さんってご病気だったのですね。
      みんなみんな、いろんなことを考えながら、抱えながら、それでも一生懸命生きている。
      それがこの世に生まれた者の使命かな・・・とも思える歌でした。

  2. とも より:

    こんばんは。
    親の老いを受け入れるには、時間が必要ですね。
    そらはなさんとお母様の日常は、このブログの範囲でしかわからないけれど、そらはなさんの心のうちは、とても共感しています。
    同じMCIの親を持つ身としては、まず現実が受け入れられません。
    記憶が留まらない母にイラつきながらも、何とか改善とまでいかなくても、進行しないようあれこれと 試してみたり。
    私自身も迷いの渦の中でグルグルと回ってます。
    この頃は帰省をしても、気弱になっている両親を見るのが、辛かったり切なかったりします。親子って切ない。
    見守りながらも、老いの姿を通して両親から教えてもらえることを自分なりに吸収していきたいと思います。せっかく縁あって親子になれたんですから。

    • そらはな より:

      ともさんへ♪
      私も、いつもいつも行ったり来たり、前に進んだり後戻りしたりの繰り返しです。
      状態がどんどん変わる成長は受け入れられるのに、老化はなかなか認められない。
      それはこうあってほしいという願望が邪魔をするのでしょうね。
      日々、学びですねぇ・・・。

  3. でぶねこ より:

    実際に体験しないと理解できないこと、まさに認知症が当てはまるのではないでしょうか。
    家族にとって、今までできていたことができなくなることがどういうことなのか、気が付くのに時間がかかるものなのでしょうね。
    本でいくら読んでいても、体験しないと「あ~、こういうことだったのか」と理解するまでに、そらはなさんのように奔走するのが、人間なんだと思います。
    私の父も、母の認知症について最初は「何を言っているんだ」と馬鹿にしていました。母は一生懸命私に泣いて電話で訴えるのですが、認知症のためにうまく説明できず、どうするべきなのかずっと悩んでいました。
    最近、父が「病気には勝てない」と母のことをやっと理解した言葉を口にしました。「あ~、時間はかかったけれど、ここまできたら大丈夫」と思いました。介護する人がイライラしていると、その気持ちだけは伝わる、悪循環に陥るのですよね。
    母は洗濯機のボタンは押せなくなったけれど、洗濯物を干したり畳んだりはできるのです。
    そらはなさんが言われるとおり、「できることを見守る」ことがとても大切なのですね。
    私は介護の仕事をしていました。介護の基本はまさに「できることを見守る」なのです。
    できることを逆に介護する側が見守らず手を出してやってしまったら、介護される人はできなくなってしまうのです。
    昔は何でもかんでも家族が手を出してやりすぎてきたのが介護というイメージでしたが、現在はできるだけ手を出さずに見守ることが、結果的に介護する人もされる人にとっても、よい結果になるのです。
    私の義母には、できるだけ手を出さず見守っています。よく病院に行くと、靴を脱いだりを看護師さんが手伝ってくれるのですが、私はできるだけ手を出しません。手を出せば、だんだんできなくなってしまうから。
    きっと酷い嫁だと看護師さんや周りの人は思っているでしょうが、私はそれでもかまわないと思っています。
    そらはなさんが今までたどってきた道のりは、とても共感がもてました。
    親がどんどん子供にかえっていく、そう考えると、気持ちももっと楽になるんだそうです。
    私は今大阪に住んでいて、実家は名古屋なのでそうそう帰るわけにもいかず、見守ることしかできませんが、顔と名前を忘れないでいて欲しいとせっせと電話をしています。
    でも近い将来、「あんた誰だっけ?」と言われそうですが、子供になったんだ、赤ちゃんになったんだと思えば、耐えられるかな?

    • そらはな より:

      でぶねこさんへ♪
      介護のお仕事されていたんですね。
      本当に本当に頭が下がります。
      手をださずに見守ることって、知識があるからこそできることなんだと思います。
      だから今できることは、いろんな情報を集め、自分も勉強することかな・・・と思っています。
      大阪と名古屋だと離れていて心配ですね。
      きっと電話もよい刺激になっていると思います。