90歳になる母は要介護1で認知症ですが、ヘルパーさんや私の手助けがあれば、まだ一人で日常生活は行えています。
しかし、時々飛び出す母の作話。
最近、母の作話は単なる想像の話ではないのだということに気が付きました。
花を自分で植えたという母
少し前、花壇の一角に短い支柱が3本刺さっていることに気がつきました。
そこは、大輪のユリが毎年花を咲かせる場所です。
花が終わったあと、茎だけになったユリは球根を太らせるためにそのままにしていました。
ところがある日、ユリの茎は地面から10cmくらいのところで折り取られ、代わりに3本の短い支柱が刺さっていたのです。
夫が、枯れたユリを刈り取ってくれたんだ。
と、その時は思いました。
それから数日後、母がめずらしく庭に出てきたので、どうしたのかと聞くと、なんと!その3本の支柱が刺さっている場所は、母が自分で花を植えた場所だと言うではありませんか。
「(美容師さんからもらった)花をここに植えたから、アンタも覚えておいてね」と言う母に、思わず聞き返してしまいました。
「えっ!自分で植えたの?」と。
なぜなら、美容師さんが持ってきた宿根草の株を、花壇に植えたのは私だったからです。
しかも、植えた場所は母が支柱を立てている場所とはかけ離れています。
「自分で穴を掘って植えたの?」と、再度母に聞いてしまいました。
すると母。
「穴を掘るくらい私だってできるわよ!」と、力強く言い放ちました。
以前、母を美容室に連れて行った際に、「なんていう花ですか?」と、私が聞いたことを覚えていて、株分けしてくれたのだ。
自宅にわざわざ届けてくれた美容師さんも「名前がわからない」という黄色い花。
受け取った母は、「なんで持ってきたんだ?」と不思議そうな顔をしていたが、どうせすぐに忘れてしまうのだからと、適当に話を合わせておいた。
その黄色い花の株を、翌日花壇に植えた。
その数日後。
母が何度も部屋にやってきては、繰り返し聞くようになった。
「美容師さんが持ってきた花、どこに植えた?」と。
時に、私が庭仕事をしていると、わざわざ外に出てきて、「(美容師さんの)花はどこに植えた?」と、何度も聞く。
不思議だなぁと思う。
毎日何度も、花を植えた話を母へ繰り返しているのに、その話はすぐに忘れるんだ。
なのに、美容師さんが花の株を持ってきてくれた、たった1度の出来事は、ちゃんと覚えているんだ。
認知症になっても、印象的な出来事はちゃんと記憶として刻まれているんだなぁ。
きっと母は、美容師さんが自宅にわざわざ花を持ってきてくれたことが、うれしかったんだろうな。
ならば私も。
母の記憶に刻まれるように、花壇に植えた話をミュージカル調に歌と踊りで表現してみようか。
いや、無理だけど。
来年、黄色い花が咲いた時に、母はこの出来事を覚えているかな?
いや、無理だろうな。~2022年10月3日のブログより~
作話とは
認知症の症状の中に「作話」というのがあります。
作話とは、実際に経験しなかったことを、自分があたかも経験したように話すことをいいます。
認知機能の衰えによるもので、抜け落ちた記憶のつじつまを合わせるために、作り話をして納得させようとしているのだとも言われます。
本人は、決してウソをついているつもりはありません。
作話をした時の対応
母の認知症の症状が顕著になったのは、父が急逝したあとからでした。
急に怒り出して私を責め立てたり、毎日何度も同じ話を繰り返したりで、私もかなり辟易していました。
作話と思われることも何度もありました。
いちいちムキになってそれを否定していた私は、以前の母のように戻ってほしいという願望があったからだと思います。
しかし、どんなに母の間違いを正しても、母の認知症はよくなることはありません。
そればかりか、作話を真に受けていると私自身が傷つくんですよね。
その後、私も認知症との付き合い方がわかるようになり、聞き流したりあるいは聞こえないふりをしたりして、受け流せるようになりました。
だけど、いまだに母の作話には心の中で(何言ってんの?)とイラっとします。
作話は願望なのだと気が付いた時
美容師さんが我が家に宿根草の株を持ってきたとき、母は「私なんてやれないからアンタがなんとかして」と、わざわざその株を私の部屋まで持ってきました。
その株を花壇に植えると、今度は毎日のように「どこに植えた?」「植えた場所はどこだ?」と母は繰り返し聞くようになりました。
私が植えたことを説明すると、母は安心したように「よかった」と言い、それは1週間ほど続きました。
それから2~3週間後。
いつのまにか母は自分で株を植えたと思い込み、その場所に支柱まで立てていました。
その支柱を見て、気づいたんです。
母だって昔は畑にいろんな野菜を植えて育てていたんだよなぁ。
私が子どもの頃は、いろんな花も咲いていたよなぁ。
きっと母も、いただいた株を若かりし頃のように、自分で植えて育てたかったんだろうなぁ。
母の想いに気持ちを馳せたら、作話というのは単なる作り話ではなく、自分の願望の現れなのだと思ったのです。
母の本当の願いが垣間見えたら、作話もなんだか切なくて愛しくて。
私は初めて母の作話を否定せず、素直に受け止めることができました。
もしも、認知症になった親の作話で困っている方がいらしたら、そこにどんな思いや願いがあるのか背景を考えてみるとよいかもしれません。
頭でわかっていても、感情はなかなかついていけないことが多いもので、私は6年もかかってしまいました。
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