「ちょっと来てちょうだい!」
母が私を呼びつけるときは、何かのトラブルが発生した時。
テレビのことかな?ストーブのことかな?電子レンジのことかな?
毎度のことなので、私も今日のトラブルはなんなのか、あれこれ想像しながら母のところへ向かいます。
今回の母の訴えは、「隣人が我が家にゴミを捨てている」というものでした。
今日こそは言ってやる!
「あなたも見てちょうだい!」
母は北側の窓の外を指さして、怒り口調で言いました。
母が言うには、「隣の家の人が窓から我が家にゴミを捨てている」とのこと。
「ひどいことする!今日こそは私も(直接文句を)言ってやる!」
と、怒り心頭な母。
実家の北側にはアパートがあり、実家との境界ぎりぎりに建物が立っているので、アパートの窓の下は我が家の敷地が広がります。
アパートの大家さんとは昔からのご近所付き合いがありますが、アパートの住人たちとは接点がなく、そこにどんな方が住んでいるのかはわからない状況です。
しかし、いくらなんでも隣のアパートの方が、窓からゴミを放り投げるなんてことがあり得るだろうか。
これまでそんなトラブルは皆無であるが故、私もにわかに母の言うことは信じられませんでした。
窓の外の母が指さす方向を見ると、確かに植木鉢のカバーが転がっていました。
実は先日、私もその植木鉢カバーに気が付いていたのですが、強風でどこからか飛んできたのかな?くらいにしか思っておらず、そのうち片付けようとそのままにしていました。
ところが、母が怒っている「ゴミ」というのは、その植木鉢カバーのことではなかったのです。
その手前にある「白いゴミ」は、「昨日まではなかったもの」で、「今日になったら落ちていた」から、「隣のアパートの人が窓から投げ捨てたものだ」と母が言うのです。
しかし私は、その「白いゴミ」がどこにあるのかわかりませんでした。
隣人が投げたという白いゴミの正体とは
「ある」「どこに?」「そこに」「どれ?」「あんた、そのゴミ見えないの!?」
母と押し問答をした挙句、私が外に出て確認したところ、母が言う「白いゴミ」というのは、実家のトイレの下水の屋外排水管の小さなマンホールの蓋のことだったのです。
「これはトイレの排水管の蓋だよ」と母に言うも、
「そんなはずはない。昨日まではなかった。隣の人が捨てたんだ」と、母も譲りません。
排水管のマンホールは、実家を建てた40年前からそこにあるものなのに、母はまるで理解できないのです。
ついに私は母を外に連れ出し、自分の目で見てもらい、やっと母も興奮状態から落ち着きました。
もしかしたら母は、以前から植木鉢カバーが落ちていることが気に入らなかったんだろうな。
そのイライラが不安となり、排水管のカバーの蓋もゴミだと思い込んでしまったのかもしれません。
私が植木鉢カバーをさっさと片付けていれば、こんなことにはならなかったのだと後悔しました。
誰かのせいにすれば安心するのか?
それにしても。
敷地内に植木鉢カバーやマンホールの蓋のようなゴミが落ちていたとしても、私ならば「先日の強風でどこからか飛ばされてきたのかな」くらいにしか思いません。
もしかして、持ち主が探しにくるかもしれないので、少しの間そのままにしておこうとも思います。
私が植木鉢カバーをすぐに片付けなかったのも、そんな気持ちが働いたからです。
ところが母は、敷地内にあるゴミを「隣人が投げ捨てた」と言い張りました。
認知症の場合、なにか問題が起こると、それを誰かのせいにする自己有利の法則が働きます。
私なら、ゴミはプラスチックに分別して〇曜日に出す…ということがわかりますが、母はそのゴミをどう処理していいのかわからなかったのでしょうね。
だから隣人のせいにして、ゴミの片づけを押し付けてしまえば、自分で処理しなくてもいいので、楽ですもんね。
母が「今日こそは一言文句を言ってやる!」と息巻いていたとしても、母が隣のアパートまで自分で歩いて行けるはずもないし、アパートの住人の電話番号も知らないわけです。
だから、母が単に自分の不安や怒りを私に聞いてほしかったのだろうな…ということも、後になって思えば推察できます。
だけど。
「ゴミが落ちているから片付けてくれない?」
そんな風に言ってくれれば、私も快く対応できるのになぁ。
人のせいにする言い方は、私の心の中にもモヤっと感を残し、嫌な気分になりました。
怒らない生き方が目標
毎日の生活の中で、ちょっとしたことにイラっとしたり不安で怒りを誰かにぶつけたくなることは、誰にだってあることです。
認知症である母の不安や怒りは、私が受け止めて聞き流すことにして、せめて私自身は誰かに怒ったりせずに、穏やかに暮らしていけることが目標です。
自分の中で「怒り心頭」になったとしても、それを誰かにせいにしないこと。
自分の身に起こる出来事は、すべて自分が引き寄せた出来事なのですから。
日日是好日。
毎日が良い日であるとは限らないけれど、どんな日でも二度と来ることのない大切な一日です。
イライラしたり怒ったりしている時間に費やすことは、残りの人生がもったいない!
母との時間も大切にしなくては・・・そんな風に思うことにしました。
コメント
こんにちは。毎回楽しみに拝見しております。
年老いた親のこと、まさに私も体験しています。一人暮らしの実父86才、義理母83才が近くにいますが、同居していなくても「どうして?」の連発です。
認知症ではないにしても、行ないに理解しがたいことが多く、怒りながらも穏やかにしなきゃって思いながら、悶々としています。
今は一人で暮らしてくれるのだから、それだけでも感謝かもしれないと。
そらはなさんのつぶやき?を見ながら反省しつつ、前向きな言葉に励まされています。
柴犬みなみさんへ♪
こんにちは(#^^#)
お父様とお義母様、一人暮らしをされているのですね。
近くに住んでいるとはいえ、いろいろ心配なこともたくさんあるでしょう。
私も毎日「どうして?」「なんで?」の連続です( ;∀;)
うちの母はある日突然、頭がクリアになる時もあり、それはそれでまたびっくりしてしまいます。
できないことを嘆くより、今できていることに感謝しつつ、心のもやもやは自分のうちにしまって・・・
そんな毎日です。