「すべて忘れてしまった」母を見て、私は旅の意味を考え直した

母が暮らすグループホームに面会に行くとき、私はいつも「今日は何を話そうか」とテーマを決めています。

会話が途切れないように。
そして、少しでも楽しい時間になるように。

先日は「旅行の話」を選びました。

旅好きの家族だったから、覚えていると思った

子どもの頃、我が家では年に一度は泊まりがけの旅行に出かけていました。
姉や私が独立してからも、父と母はよく旅をしていました。

だから、ひとつくらいは覚えているはず。
そう思って、具体的に聞いてみたのです。

「日光いろは坂に行ったよね」
「皇居のはとバスツアーも行ったよね」

でも――
母は、ひとつも覚えていませんでした。

認知症だから…。
頭では理解しています。

それでもショックだったのは、母の思い出が消えたことではありません。

「老後の自分を支えてくれるはずの記憶」が、何ひとつ残らないかもしれない。
その現実に、胸がざわつきました。

私が旅に求めていたもの

私はこれまで、旅に出るたびに思っていました。
――この記憶が、いつかの自分を救ってくれる。

いずれ自由に動けなくなったとき、「あの時は楽しかった」と思い返せるように。

でも母は、たくさん旅をしてきたのに、今はそのどれも思い出せません。

「じゃあ、私は何のために旅をしているんだろう」

そう思ったとき、ひとつの考えが浮かびました。

記憶よりも確かなもの

記憶に残ることより、その瞬間にちゃんと生きていることのほうが、価値があるのではないか。

母は思い出せなくても、

・誰かと笑った時間
・景色を見て「きれいだね」と感じた瞬間
・家族と過ごした安心感

それらは、そのとき確かに存在していました。
そしてたぶん、その時の“感情”は完全には消えていないはずです。

母はいつも、何度も同じことを言います。

「今はいい時代になったねぇ」
「みんな、年寄りにやさしくしてくれるからね」
「ありがたい世の中だよ」

過去はたどれなくても、“今の安心”は、ちゃんと感じています。

思い出を貯めるより、今を受け取る

それを見て、思いました。

思い出を貯めるために生きるより、今をちゃんと受け取るほうが、ずっと確かだ、と。

美味しいものを食べたら、その場でちゃんと味わう。
きれいな景色を見たら、立ち止まって目に焼き付ける。
誰かといる時間を、しっかり受け止めて感じる。

未来の自分が覚えていればラッキー。
忘れてしまっても、その瞬間は消えない。

少し皮肉だけれど、思い出に頼らなくても満たされる生き方があります。

これからの私が選びたい時間

だから私は、これからも自分が「いいな」「やってみたいな」「行ってみたいな」と思う時間を選んでいきたい。

未来のためじゃなくて、今の自分のために。

それだけで、十分なんだと思います。

さて!
旅行シーズン到来です。

今年はどこへ行こうかな。

 

コメント