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【老健で暮らす母の面会記録】認知症の進行と母の変化 それでも私は会いに行く

2週間ぶりに、老健で暮らす母のもとへ面会に行ってきました。

前回会ったときよりも、母の声はしっかりしていて、表情も穏やか。元気そうに見えました。

相変わらず施設を自分の家だと思っているようで、「ヘルパーさんが来てくれる」「冷蔵庫に入ってるものを食べている」などと話していました。

それならそれで、いいのかもしれません。
「ここは私の家だ」と思える場所で、安心して暮らせているのですから。

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子どもの名前は忘れても

私が名乗っても、母はピンときていない様子でした。

そこで「子どもたちは元気?」と尋ねてみると、母は孫の名前を口にしました。
でも、私や姉の名前は出てきませんでした。

家にいた頃から、認知症が進むにつれて、母は「なにもわからなくなった」とよく嘆いていました。
それでも、孫の名前だけは忘れまいと、毎日のように口にしていたのです。

今も、その名前だけは覚えている——。

そう思うと、なんとも言えない気持ちになりました。

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サポーターなしで歩ける? 母の変化

今回、私が驚いたのは、母が両膝にサポーターをつけずに歩いていたことです。
家では「サポーターがないと絶対に歩けない」と言っていたのに、何もつけずにしっかりと歩いていました。

リハビリの成果なのかと思いましたが、スタッフの方に聞くと「面会の前にお風呂に入ったので、そのままサポーターをしないで来た」とのこと。

もしかすると、認知症が進んだことで「膝が痛い」という記憶そのものを忘れてしまったのかもしれません。
あるいは、母にとってサポーターは“安心材料”のようなものだったのかもしれません。

以前の母は、「転んだらおしまいだ」と口癖のように言い、歩行には人一倍気をつかっていました。
本当はサポーターがなくても歩けたのに、不安な気持ちが「歩けない」と思わせていたのかもしれません。

姉のお姑さんも、認知症になる前は頻繁に「痛い、痛い」と身体の不調を訴え、しょっちゅう病院に通っていました。
でも、認知症が進んでからは、痛みの訴えがなくなったそうです。

認知症は不幸なことなのか?

認知症は、本人にとっても家族にとっても、とてもつらい病気です。
でも、身体の痛みや不調すらも忘れていくのなら、それは幸せなことなのかもしれません。

ただ、「痛みを忘れる」ことが、本当に良いことなのか——。

痛みを感じないことで、ケガをしても気づかないかもしれません。
異変を訴えられないことで、病気の発見が遅れるかもしれません。

「忘れられるから幸せ」と簡単に言い切れない現実が、そこにはあります。

それでも、本人が苦痛を感じず、今を穏やかに過ごせているのなら——。
それだけで、十分なのかもしれません。

「ここはどこ?」 面会が母を不安にさせる?

面会室の前の廊下を誰かが歩く音がすると、母は「なんの音だ?」と何度もソワソワしていました。
そして、急に真顔になり「ここはどこだ? 来たことない場所だ。初めて見る場所だ」

と、不安そうに言います。

母にとって、ふだんの生活の中で来ることのない面会室は、まるで知らない場所に来たかのように感じられたのでしょう。
また、私のことも「誰だかわからないけれど、やたら話しかけてくる人」と思い、ますます不安になったのかもしれません。

母が戸惑っているのを見て、私は何度も「大丈夫だよ」と声をかけました。
すぐに母は落ち着くのですが、また物音がすると「なんの音だ?」と廊下の方を気にします。

もしかすると、面会をすることで、逆に母を不穏にさせてしまっているのかもしれない…。

そう思うと、私もいろいろ考えてしまいました。

それでも、私は母に会いに行く

面会は、必ずしも母にとってプラスになるとは限らないのかもしれません。
今回は、初めてそう感じました。

それでも、私は母に会いに行きます。

母のためというより、私自身の気持ちを落ち着かせるため。
そして、母がどんな状態なのか、確認して安心したいという、自分自身のために。

自己満足かもしれません。

それでも、名前を呼び、手を握ることができる間は——。

これからも、定期的に母の元へ通おうと思います。

 

 

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